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炎の陽明学~山田方谷伝~ を読んで3/3

古典・大学に修己治人の学として8条目あります。

格物・致知・誠意・正心・修身・斉家・治国・平天下

偉人は皆、己を修める(修己)前5つの項目を徹底するか、人を治める(治人)の後ろ2項目を徹底するか、あるいは、どちらも徹底するのですが、間にある「家」をも斉えた人物というのは少ないように感じます。
(※斉家も優れた代表的な偉人がいたら教えて下さい。。。)

山田方谷しかり、良く学び、良く励み、奢侈を嫌い、不正を嫌い、己には厳しい倹約的生活を課していました。その結果、見事国を治めるに至りました。明治の新政府からは、天下を治める手助けをして欲しいと岩倉具視大久保利通木戸孝允など敵陣営だったにも関わらず、声が掛かりました。

農商出身の山田方谷にとって、これ以上の出世はありませんでした。
これも一重に幼い頃より儒学を丹念に学んできた結晶だと思います。

しかし、華々しい表の活躍とは打って変って、家庭生活はうまくいかないことが多かったようです。

2度の離婚もさることながら、藩政においては神がかり的な改革を成し遂げた方谷が、晩年の山での隠居暮らしでは、凡ミスをおかしています。普請道楽・普請地獄。
門下生として学びたいと各地から集まる入門希望者のために、家を大きく造りすぎて、予算をはみ出してしまいました。その借金のために、ずいぶん苦労したようでした。

方谷が家計簿に書いていた詩(原文は漢詩)を紹介します。

借金が何だというのだ、わずかなお金じゃないか。
とるにたらないことに心をわずらわすなんて。
ちゃんと胸中には支払い見こみが立っている。
夫の私は蔵書を売り、女房はかんざしを売ればすむことだ。

藩の最高権力(今でいう総理大臣)にまで上り詰めた奇跡の財政改革者の裏にはこんな一面があったというのが可笑しくなります。

これは教訓だと思います。

どんなときでも油断は禁物。
わずかな油断が大きな綻びへと繋がるやもしれません。
歴史や偉人に学ぶ一つの大きな意味に、教訓があることだと思います。
完璧に限りなく近くても、完璧な人間はなかなかいません。
完璧な人間足りえると、キリストやブッダのように神や仏になるのかもしれませんが、基本的にはどこかに、人間味があり、教訓があります。

改めて教訓の大切さに気づきました。
生き方・生き様のケーススタディです。
それらのケーススタディで学んだ教訓を我が身に活かし、歩んでいきたいと思いました。

炎の陽明学―山田方谷伝 炎の陽明学―山田方谷伝

炎の陽明学~山田方谷伝~ を読んで2/3

炎の陽明学、第2章からいよいよ藩政改革が始まります。

方谷が藩の元締め役兼吟味役(財務大臣)を任せられた当時、藩の財務状態は、実高2万石で10万両の借金+利子が毎年約1万両ずつ増えていく悲惨な状態でした。

藩政改革者として有名な上杉鷹山は、実高15万石の米沢藩で、20万両の借金を100年近くかけて返済しました。(存命中には果せず)

上記の例を見ても、2万石で10万両の借金というのは当時大変なものだったことが伺えます。

方谷はなんと、この借金を8年足らずで完済、かつ、10万両のプラスに変えてしまいました。

なぜ、このような改革を達成することができたのか、その能力を本書から三点挙げてみたいと思います。

一、人の心を汲み取る能力・人情の機微を捉える能力

農商出身者が藩の財務責任者になるという大抜擢により、藩政に携わる上級武士からは妬みを、改革に伴う大々的な倹約令により、民からは恨みを、、、このような状態で改革を成し遂げるには、人情を察し、相手を立てる能力がなければ、誰も従ってくれません。

二、ケーススタディ・歴史に学ぶ能力

ただの儒学者では、財政改革はとても為しえません。方谷が凄いのは、幼い頃からの勤勉さによって、中国歴代の財政改革への造詣も深かったことにあります。現代で言えば、MBAのケーススタディのようなものでしょうか。人は知っていれば、ある程度対応できるもの。未知との遭遇をなるべく回避するために、歴史から学ぶのだと思います。

三、デモンストレーション能力

絶望的な改革を成功させるためには、内外の士気を高めそれを維持する必要があります。方谷は、前例の無い様々なデモンストレーションを継続的に行い、藩政に関わる者、また民衆の意識を鼓舞し続けて改革に取り組みました。

一例をあげると、

当時、信用が地に落ちた紙屑同然の藩札を民から買い取りかき集め、それを一日がかりで、全て燃やし尽くす。というイベントです。これには、藩の内外から人が群がり、もったいない、もったいないと言いながらも、面白半分。その火を見つめたそうです。
このデモンストレーション直後に発行した新藩札は、民の信頼を得て広く普及し経済の潤滑油となったという逸話があります。

現代資本主義の視点からみるとこの改革は目新しくないのかもしれませんが、まだまだ金本位制度であった当時、この偉業を成し遂げたのには脱帽です。

偉人の生き様」だけではなく、現代の問題を解決するための、「ケーススタディ」も今後学んでいく必要があると、改めて歴史に学ぶ重要性を実感しました。

また、「人情の機微」は松下幸之助翁も相当に気を配られた点。人との関係で生きている世界。人の心を汲み、自分より人という精神を養わなければと思いました。

デモンストレーション能力というのは、新しい気付きです。
なるほど確かに。事を起こすとき、萎えそうな気持ちを鼓舞し継続させるとき、反発がおきると予想されるとき、、、それぞれ、かなりのエネルギーが必要だったり、エネルギーの矛先を変化させる必要があったりします。そういったエネルギーの操作をデモンストレーションを通じて行ったというのは非常に勉強になりました。

まだまだ歴史から学ばなければならないことが多くありそうです。
今後も、より一層精進していきたいと思いました。

炎の陽明学―山田方谷伝 炎の陽明学―山田方谷伝

炎の陽明学~山田方谷伝~ を読んで1/3

山田方谷は、幕末期の儒家・陽明学者です。
農商の子から備中松山藩の元締役(財務大臣)にまで上り詰め、最終的には藩主より全権を任せられ、苦境にあった当時の藩政改革を見事に成し遂げた立志の人です。

内村鑑三著の代表的日本人にて上杉鷹山が取り上げられ、ケネディやクリントンが絶賛したことから、今では、藩政改革の成功者と言えば上杉鷹山が挙がるようになりました。

ケネディやクリントンが「一番尊敬する日本人の政治家は誰ですか?」の問いに上杉鷹山と答えなければ、上杉鷹山を多くの日本人が知ることはなかったように、山田方谷もまた知られざる改革者なのかもしれません。

実績で言えば、上杉鷹山の10倍以上のパフォーマンスだったと言われています。

どうしてこのように偉大な功績を残すことができたのか――

農商の子ではありましたが、曾祖父までは名字帯刀を許された豪族でした。
方谷の祖父、父は山田家をどうにか再興させようと、方谷の教育には全力を注いだようでした。当時、下層階級の人が出世をするには、剣と学問しかありません。

そのため、幼少の頃より高名な儒学者(丸川松陰)の下で学問に励みました。

ある日、師の丸川松陰を訪ねてきた客が、教室で学習する塾生の中に、あまりにも幼い方谷がまじっているを見て驚き、少しからかい気味に方谷に質問をした。

坊や、何のために学問するの。

客人を見上げた神童はきっぱりとした口調で「治国平天下」と答えた。
客人は腰が抜けるほど仰天し、絶句した。

という逸話が残っています。

お家の復興もさることながら、何のために学ぶのかをしっかりと捉えて学問をしていたことが伺えます。

順調に学問を重ね、神童として育っていった方谷に、苦難が訪れます。
14歳、15歳にてそれぞれ母、父を失ってしまいました。
長男だった方谷は、已む無く家業を継ぎ、毎日重労働の日々に学問は遠のきました。

商売は世俗にまみれ、毎日凡庸な人との接触、損か得かのやりとりは、悔恨の日々であったと記されています。

転機は21歳のときに訪れました。
方谷の名声を遅れながらに聞きつけた藩主に目をかけられ、奨学金を貰い再度学問に専念できるようになりました。

この後、京都や江戸へ遊学し、佐藤一斎の門下で学び、佐久間象山(勝海舟の師匠)などの同門と切磋琢磨して帰国後、備中松山藩の藩校有終館の学頭(校長に相当)に32歳で抜擢されました。

方谷は、兎に角、ひたすらに学びました。
日々の生活では遊びに耽ることもなく、驕ることもなく、精進しました。

そうやって、エネルギーを内に溜めに溜めたからこそ、与えられた機会にその力を発揮することが出来たのではないかと思います。

方谷を見習い、静かに虎視眈々と胆識、胆力というものを練り蓄えたいと思いました。

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