Monthly Archives: 7月 2009 - Page 2

佐藤一斎に学ぶ 失ってはならない拠り所

119、己を恃(たの)むべし

佐藤一斎およそ、大丈夫たるものは、自分自身にある者をたのむべきで、
他人の智慧や財力、権力などをたのみにしては何ができようか。
天を動かし、地を驚かすような大事業も、すべて、己一個より造りだされるものである。

仏教での一話。
弟子の阿難が、釈尊の最後が間近いことを知って、
「私はこのさき、誰に頼ったらよいのでしょうか」と泣きながら訴えた。
釈尊は言われた、「阿難よ、汝自らを灯火とし、汝自らを拠り所とせよ。
他を拠り所とするな。真理を灯火とし、真理を拠り所とせよ
」と。

また、法句経では以下のように歌っています。
おのれこそ おのれのよるべ 他の誰に たよられようぞ
よくととのえし おのれこそ まこと得難き よるべなれ

「よくととのえられた己」は、「真理」と同様に「拠り所」となりえる
と言っているのだと解釈しました。

120、己を失えば

佐藤一斎己を失えば、友人を失う。友人を失えば、物を失う(何もなくなってしまう)。

自分の志した生き方を失うということは、友の信頼を失うことであり、
全てを失うことだと心得、己を見失うことのないよう、日々内省し、
どうやって生きたら、より良くなれるか工夫したいと改めて思いました。

頼るべきは人ではなく、自分であり、自分を頼るには、
頼りになるべき自分自身を作り上げなければなりません。
自分が自分に嘘を付いているようでは、自分を頼れる道理もありません。

心を正し、身を修めること、家を斉えることを意識し、
生活していきたいと思いました。

言志四録 1 (講談社学術文庫 274) 言志四録 1 (講談社学術文庫 274)
佐藤 一斎

佐藤一斎に学ぶ 欲を内に留めること

112、欲を漏らすな

佐藤一斎草木が生気があって、日に伸び茂るのは、草木の欲である。
草木の枝葉が伸びるにまかせれば、欲が漏れる。
だから、枝葉を切れば、生気が根に返って、幹が太くなる。
人間も身体の欲にまかせると欲が漏れる。
欲が漏れると、精神が消耗して、霊妙な働きができなくなる。
故に、欲が外に漏れるのを防げば、生気が内に蓄えられて、
心は霊妙な働きをし、身体も健康である。

113、欲をふさぐ

佐藤一斎鍋のなかの湯が蒸発して、湯気となる。
この湯気が外に漏れて出ると湯は少なくなる。
蓋でこれをふさぐと、湯気は外に漏れないで、露となり、滴り落ちて、湯は減らない。
人もよく欲をふさぐと、心も体も十分に養われることも、これと同様である。

これは、前々からそうだなと感じることがあります。

とある芸術家も欲を外に出していると、いい作品が作れない、と言っていました。
しっかり本を読んだわけではないので定かではありませんが、
フロイトもそんなことを言っていたような気がします。

欲が過ぎ、それを適当なことで満たしているときは、
今まで、溜めていたエネルギーが外にどんどん出ていってしまうような感覚があります。

そんな意味からも欲は内に留め、己を律することの意味があるのだろうと思いました。

欲に左右される人生ではなく、我欲は内に留め、
大欲、公欲に転化させ、世のため人のためのエネルギーとして使っていきたいと思います。

言志四録 1 (講談社学術文庫 274) 言志四録 1 (講談社学術文庫 274)
佐藤 一斎

佐藤一斎に学ぶ 聖人は欲を善処に用う

110、聖人は欲を善処に用う

人は欲がないわけにはいかない。
この欲が悪をする。天は既に人に善なる本性を与え、
その上にこれを乱すものとして、欲という悪を付け加えた。
天はどうして、初めから欲を与えずにおかなかったのか。
果たして欲は何の役に立つものか。

一斎先生は、欲は生きた人間の生気であって、
この欲があって人間は生き、これがなくなれば死ぬと言っている。
欲気が体内に広がって、身体の穴や毛孔から漏れ出る。
それで身体をしてその欲望を盛んならしめる。
これが悪に流れさせる理由である。

佐藤一斎およそ生物は欲がないわけにはいかない。
ただ、聖人はその欲を善いところに用いるばかりである。
孟子は、「欲す可き、之を善と謂う」と言った。
孔子は、「心の欲する所に従う」と言った。
瞬は、「予をして欲するに従い以て治めしめよ」と言った。

このように聖人は皆、欲の本来の意味を十分に理解して、
善い方面に利用したと言いうる。

「欲」について、このように一斎先生は説いています。

欲は生気、人が生きていくために必要なものです。
ただ、欲は「己」が生きる力ゆえに、そのまま欲望を膨らませ、
解き放つと、行き過ぎ、結果悪に流れます。

この「我欲」とも言うべき、己を生かすための欲を、
大欲」「公欲」のように、世のため人のために活かすという方向で使っていければと思います。

ただ、聖人のように心の欲するままに従って善という境地にはなかなか至れません。

孔子にして、「七十にして心の欲する所に従へども、矩(のり)を踰(こ)えず」とあるように、
日々の意識、努力を積み重ねなければと思いました。

言志四録 1 (講談社学術文庫 274) 言志四録 1 (講談社学術文庫 274)
佐藤 一斎

佐藤一斎に学ぶ 人の善悪

107・108・109、本性と軀殻(くかく)

ここでは、人の本性は善であることを知ろうとするなら、
何故に人が悪をなすかを究める必要があると説いています。

人が悪をなすのは、果たして何のためであるか。

耳目鼻口四肢のためではあるまいか。
耳や目があるから、音楽や女色に溺れ、鼻や口があるから、
匂いや味に耽り、また手や足があるから、安逸を貪ろうとする。

これらは皆、悪が起こる原因となるところである。

もし、耳目鼻口四肢を体から取り去って、
一塊の血肉としたならば、この人は果してどんな悪をなすだろうか。

人間の本性は天にうけ、身体は地からうけたものである。

天は、形もなく、自由自在に通じることができるから善の一つで押し通せる。
地は色々入り混じって形があるから制限がある。
だから、時には善、時には悪となるというように、善悪を兼ねている。
この地はその活力を天にうけて、その地の地たる働きをするもので、
風雨を起こして、万物を生じる。

しかし、時には風雨は物を破損することもあるから、善悪を兼ねている。

しかし、その悪は、真からの悪ではなく、
ただ活力の過ぎるか及ばないかによるものである。

本性が善であるということと、身体が善悪を兼ね備えているというのも、
同じだと一斎先生は言います。

本性は善であっても、身体がなければ、その善を行うことは出来ません。
身体を設けたのは、もともと心に使われて、善をさせるためであります。
ただ、その心も一度身体の中に滞ると、善もなすが、時には行き過ぎたり、
及ばなかったりして、悪に流れることもある。

このように、一斎先生は、儒教の性善説に則って説明しています。

行き過ぎず、及ばな過ぎず、中庸というものが重要なのだと解釈しました。

天地自然のバランスを身体全体で受け止め、その中庸というものを体得し、
中庸に則り生活できたらどれほど素晴らしいことだろうと思います。

そんな状態に少しでも近づけるよう柔軟な心を持って、
日々研鑽していきたいと思いました。

言志四録 1 (講談社学術文庫 274) 言志四録 1 (講談社学術文庫 274)
佐藤 一斎

殷の湯王に学ぶ 変わらないための努力・日々改める意識

最近、朝の早起きというのが少し緩んできている日があります。

気持ちの緩みが小さなミスに留まらず、
大きな失敗へ繋がるということを身体が覚えたのか、
とても怖く思っています。

改めて、朝どう起きるべきか考えていると、
ふと、変わらないための努力というのは、
こういうことを言うのかなと思いました。

早起きなど、非常に些細で恥ずかしい話題ではありますが、
企業が売上を維持するために、努力し続ける原理と同じなのかなと思いました。

甚だレベルの低いところでの努力ですが、
程度の低い努力が次々と当たり前の習慣になっていくよう
日々意識し直したいと思いました。

殷王朝を樹立した湯王は、洗面器に
苟日新、日日新、又日新
「苟(=誠)に日に新たに、日日に新たに、また日に新たなり」
の九文字を刻印し、毎朝、洗面するたびにその九文字を心に刻み、
政に臨む覚悟を新たにしたと四書「大学」にありました。

良習慣を身に付け、さらに日々新たにできるよう、
心掛けていきたいと思います。

大学・中庸 (岩波文庫) 大学・中庸 (岩波文庫)
金谷 治

偉人に学ぶ人間力向上のヒントとコツ 勝海舟

金曜日は、会津大学にて人間学ゼミが開催されました。
今回取り上げた人物は勝海舟です。

海舟の曽祖父の銀一は貧農の家に生まれたでしたが、
江戸へ出て、高利貸しで成功し、息子の平蔵が、
御家人株を入手して男谷家を興しました。
平蔵の三男の子吉が武家の勝家に養子として入り、
海舟は、江戸の下級武士として江戸本所に生まれました。

海舟は、その人生を振り返ってみると、
30歳までが思想基盤の形成期31~39歳が活動基盤の養成期
41~46歳が第一線での活躍期47歳以降は隠居同然
という人生になっています。

海舟は、その職務や思想から刺客から命を襲われることが度々あったそうです。
しかし、殺されずに、最後は江戸城無血開城という偉業を成し遂げたのには、
理由があったそうです。

その理由を自身の回想録を通して今回のゼミから学ぶ事ができました。

氷川清話より

238ページ:いくら才気があっても、胆力がなかった日には何ができるものか。
天下のことは、口頭や筆端ではなかなか運ばない。
なにしろ今の世の中は、胆力のある人が一番重要だ

218ページ:全体なにごとによらず気合いということが大切だ。
この呼吸さえよく呑み込んでおれば、たとえ死生の間に出入りしても、決して迷うことはない。
しかし、これは単に文学の学問ではできない。
王陽明のいわゆる“事情磨練”すなわち、しばしば万死一生の困難を経て始めてわかる。

241ページ:またあるときは既に刀を抜きかけたやつもあったが、
そんなときにはおれは、「切るなら見事に切れ、勝はおとなしくしていてやる」というと、
大抵なやつは向こうからやめてしまう。
こういうふうにおれは一度も逃げもしないで、とうとう切られずに済んだ。
人間は胆力の修養がどうしても肝心だよ。

という具合で、勝先生は、学問をすることは前提として、
胆力がなければ事を為すことはできないと語っています。

胆力はなかなか学問だけでは養えません。
学問で身に付けた知識を“見識”として胸に刻み、
見識を“胆識”として腹に落とすには、様々な経験を通して、
よく身体に練りこまないといけません。

そうして練りこまれたものが、胆力として発揮されるのだと思います。

頭だけの知識で事を為そうとするのではなく、知識を腹に落とし、
経験を腹に落として、まさに実学として胆力を養い、
胆力でもって、行動していける人物にならなければと改めて思いました。

※参考資料:氷川清話 (角川文庫)
※関連資料:氷川清話 (講談社学術文庫)

氷川清話 (講談社学術文庫) 氷川清話 (講談社学術文庫)
江藤 淳 松浦 玲

幸せは我が内にある

致知8月号の巻頭の言葉は「幸せは我が内にある」でした。

明珠在掌”…めいじゅたなごころにあり

という禅語は、大切なものは手のひらのように近くにある。
ということを説いているそうです。

空海も、「般若心経秘鍵」の冒頭において、

それ仏法遥かにあらず。
心中にして即ち近し、真如外(ほか)にあらず。
身を捨てて何かに求めん。

と記していると書かれています。

(訳)真理は自分の外にあるものではない。
自分の一番身近なところ、内にあるものであり、
それを外に求める必要はない。

そして、道元もこのように詠みました。

極楽は眉毛の上のつるしもの あまり近さに見つけざりけり

偉大なる先人達は、幸せや大切なものは、
皆自分の中にあるのだと教えてくれています。

今目の前にある生活をよくよく味わい、咀嚼して、
この生活の中に大切なものがあることを意識し、
外へ目を向けるのではなく、一歩一歩前進しなければと改めて気付かされました。

佐藤一斎に学ぶ 花

92、花-已むを得ずして発するもの

佐藤一斎已むを得ざるに薄(せま)りて、而(しか)る後に
諸(これ)を外に発する者は花なり。

準備万端ととのって、やむにやまれなくなって、
蕾(つぼみ)を破って外に咲き出すのが花である。

花は人に褒められるために咲くのではない。
蜂や蝶のために咲くのでもない。
自然に木や草の精気がこり固まって、やむを得ずして咲くものだ。

吉田松陰が、
かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂
と歌ったのも、内にみなぎる大生命の発露であろう。

我々の仕事や作品や行動も、内からほとばしり出る、
やむにやまれぬ精神の発露の場合、
それは、外からは花の如く美しく見えるものである。

一斎先生が言わんとしていることを、句にするならば、
このようになるのかなと訳者の感性にも敬服しました。
松陰先生の句の力強さが伺えます。

まさに、花の如く、松陰先生の如く、大生命の発露という生き様、
“天晴れ”と言わんばかりの生き様にあこがれます。

少しでも、純粋に、真っ直ぐに生きられるよう、日々、己を見つめながら、
鋭気を養い、溢れ出さんばかりに発露させていければと思いました。

言志四録 1 (講談社学術文庫 274) 言志四録 1 (講談社学術文庫 274)
佐藤 一斎

佐藤一斎に学ぶ 後世の毀誉 (現世・一身 < 後世・子孫)

89、後世の毀誉(きよ)

佐藤一斎当今の毀誉は懼(おそ)るるに足らず。
後世の毀誉は懼(おそ)る可し。
一身の得喪は慮(おもんばか)るに足らず。
子孫の得喪は慮(おもんばか)る可し。

現世で悪く言われようが、褒められようが、それは恐るるに足りない。
後世になって悪く言われたり、褒められたりすることは恐ろしい
(後世では拭うことができない)。
わが身の得失、利害は心配するに当たらないが、
子孫に及ぼす影響は十分に考えておかなければならない。

現世、一身のことのみを考えてしまいがちですが、
それらは、考えるまでもないことであると説いています。

自分の力でどうにかなる、現世や一身のことを憂うのではなく、
自分の力の及ばない、後世、子孫のことを憂い、心配する気持ちで、
現世、一身を賢明に生きなければならないと改めて感じました。

一章前に「眼を高くつけよ」とありましたが、
人生において俯瞰するとこのようになるのかもしれません。

目先のことを考えて生きるのではなく、
後世、子孫のことを考えて生きていかなければと思いました。

言志四録 1 (講談社学術文庫 274) 言志四録 1 (講談社学術文庫 274)
佐藤 一斎
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