Monthly Archives: 5月 2009

渋沢栄一先生から学ぶ、修養の心得

修養は理論ではない

渋沢栄一修養はどこまでやらねばならぬかというに、これに際限がないのである。けれども空理空論に走ることは、最も注意せねばならぬ。修養は何も理論ではないので、実際に行うべきことであるから、どこまでも実際と密接の関係を保って進まねばならぬ。

教えを受けているときというのは、頭だけで解ったつもりになってしまいがちで、「理解した」=「習得できた」と誤解してしまう自分がいます。

橋本左内は、“学ぶ”こととは“行う”ようになることだと言い。

王陽明は、知って行わないのは、未だ知らないことと同じである。と“知行合一”を説きました。

「知りて知らずとするは上なり。知らずして知るとするは病なり。」
(自分でよくわかっていても、まだ十分にわかっていないと考えているのが、最もよいことである。わかっていないくせに、よくわかっていると考えているのが、人としての短所である。)

と、老子が説くように、実践に実践を重ね、ようやく身に染み付いたとしても、理解したなどと思わないように、心掛けていきたいと思いました。

論語と算盤 (角川ソフィア文庫) 論語と算盤 (角川ソフィア文庫)
渋沢 栄一

渋沢栄一先生から学ぶ、人が人たる所以

人は人皆自らを万物の霊長と信じているが、如何なる者を人といい、人と禽獣の違いはどこにあるのか。渋沢先生は、以下のように説かれています。

渋沢栄一昔、欧州のある国王が、人類天然の言語は如何なるものであるかを知りたいと思って、二人の嬰児を一室に収容し、人間の言語を少しも聞かせないようにして、なんらの教育も与えずにおき、成長の後、連れ出してみたが、二人とも少しも人間らしい言語を発することができず、ただ獣のような不明瞭な音を発するのみであったと言う。

これは、事実か否かは知らないが、人間と禽獣との相違は、極めて僅少に過ぎぬということは、この一話によっても解るのである。四肢五体具足して人間の形を成しておるからとて、われわれはこれをもって、ただちに人なりと言うことはできぬのである。人の禽獣に異なる所は、徳を修め、智を啓(ひら)き、世に有益なる貢献をなし得るに至って、初めてそれが真人と認めらるるのである。

姿形が人であっても、人は人たりえない。人としての真価は、その富貴功名に属する成敗を二の次として、よくその人の世に尽くしたる精神と効果とによって、あらわれてくるとも言い換えています。

果して自分は、この世の中に貢献できているのか?貢献できるうる人となるため努力をしているのか?基礎となる人格を磨き、少しでも社会貢献できるような人間になりたいと改めて思いました。

論語と算盤 (角川ソフィア文庫) 論語と算盤 (角川ソフィア文庫)
渋沢 栄一

渋沢栄一先生から学ぶ、お金に対する心得

日本資本主義の父と呼ばれる、渋沢先生から学びたい項目の一つであります。

渋沢先生は、“論語と算盤”という著書の名からも推測できる通り、富貴(経済)と仁義(道徳)は、一致しなければならないという思想を一貫して説いており、賢いお金の儲け方を説いているのではなく、経済や事業に対する姿勢を説いています。

仁義と富貴”という章のエッセンスを取りあげてみます。

渋沢栄一一、真正の利殖は仁義道徳に基づかなければ、決して永続するものではない。
一、人の弱点として、利欲の念より、ややもすれば富を先にして道義を後にする弊を生じ、過重の結果、金銭万能のごとく考えて、大切なる精神上の問題を忘れて、物質の奴隷となりやすいものである。
一、所有者の人格如何によって、善ともなり、悪ともなるのがお金である。
一、我々は金を貴んで善用することを忘れてはならない。実に金は貴ぶべくまた賤しむべし。これをして貴ぶべきものたらしむるのは、ひとえに所有者の人格によるのである。
一、富を増やせば増やすほど、社会の助力を受けている訳だから、この恩恵に報いるに、救済事業(社会貢献)をもってするがごときは、むしろ当然の義務で、できる限り社会のために助力しなければならぬ筈と思う。

お金というものは、確かに力があるもので、決してあなどってはならない。しかし、その力に踊らされ、振り回されてはいけない。その財をもたらしてくれた国家社会のために使ってこそ、お金の価値の良し悪しが決まる説いています。

富める者の義務、ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)とはよくいったものですが、それを問われる人間になりたいものです。

論語と算盤 (角川ソフィア文庫) 論語と算盤 (角川ソフィア文庫)
渋沢 栄一

渋沢栄一先生から学ぶ、発言に気をつけること

渋沢先生は、“口は禍福の門なり”という節にて、以下のように語っています。

渋沢栄一余は平素多弁の方で、よく種々の場合に口を出し、あるいは演説なぞも所かまわず、頼まれればやるので、知らずしらず言い過ぎることなぞあって、人からしばしば揚げ足を取られたり、笑われたりすることがある。
~中略~
口舌は禍の門であるだろうが、ただ禍の門であるということを恐れて一切口を閉じたら、その結果はどうであろうか。有要な場合に有要な言を吐くのは、できるだけ意思の通ずるように言語を用いなければ、折角のこともうやむやに葬むらねばならぬことになる。それでは禍の方は防げるとしても、福の方は如何にして招くべきか、口舌の利用によって福も来るものではないか。もとより多弁は感心せぬが、無言もまた珍重すべきものではない。

私もまた多弁でありますが、渋沢先生のように“心にもないことを言わぬ主義”であるかといったら、そのように徹底出来ているわけではありません。多弁ゆえ、失言もあります。禍福混合状態です。日々振り返ったときに、失言では無いにしろ、もう少し言い方に気をつければ良かったという点はいくつもあります。

論語に「君子、重からざればすなわち威あらず」とありますが、軽はずみな態度と合わせ、発言が自分を“軽く”している大きな原因だと思っております。

軽はずみな発言や、失言というのは、言葉に出した事も問題ですが、根本は、その発言をするに至った己の“考え”、考えの元となっている“人間性”そのものが未熟であると考えています。人間性・人格というものを高めると同時に、よくよく反芻した上での発言というものを心掛けていきたいと思いました。

論語と算盤 (角川ソフィア文庫) 論語と算盤 (角川ソフィア文庫)
渋沢 栄一

渋沢栄一先生から学ぶ、得意時代に気をつけること

夜、己の一日の行動・言動を振り返るようになって、その日あった良くなかった点を、また、どうすべきであったか、どうすべきであるかを書き記しております。そうすると、些細な事から始まって、自分が出来ていない多くのことを発見、意識できるようになってきました。

論語と算盤において、渋沢栄一先生は、得意時代にこそ気をつけなさいと言っております。

渋沢栄一およそ人の禍いの多くは“得意時代”に萌(きざ)すもので、得意の時は誰しも調子に乗るという傾向があるから、禍害はこの欠陥に喰い入るのである。

また、良く考えなければならないこととして、“大事”と“小事”とのことにも触れています。

渋沢栄一失意時代”は小事もなお、よく心するものであるが、多くの人は“得意時代”における思慮は全くそれと反し、「なにこれしきのこと」といったように、小事に対してはことに軽侮的の態度をとりがちである。

とあるように、小事に対しても、大事と変わらぬ心がけをしないと、思わぬ過失に陥りやすいと戒めています。

私の場合は、まさに得意時代の対極に位置しておりますので、今はこのように何かと意識して生活しておりますが、何かのきっかけで得意になることがあれば、そのときが怖いと思っています。

得意になったときも、小事に敏感に反応し、大きく道をそれてしまう前に、軌道修正できる習慣を、今のうちからしっかりと養っていきたいと思いました。というより、今は意識できている。という風に考えるようになったら要注意だと戒める必要がありますね。

論語と算盤 (角川ソフィア文庫) 論語と算盤 (角川ソフィア文庫)
渋沢 栄一

六波羅蜜

仏教には、六波羅蜜という徳を積む六つの行があります。

  • 布施…人に喜びを与える
  • 持戒…日常の態度を戒める
  • 忍辱…耐え忍ぶ
  • 精進…一所懸命、一心不乱に打ち込む
  • 禅定…心身を静め、自分を振り返る
  • 智慧…真理を学ぶ

今現在、生活や意識を改めるために、習慣として、夜自分を振り返り、あるいは、学び、朝気付きのメールをし、神前にて祝詞を奏上するということを続けています。

現時点での自分の行為を六波羅蜜に結びつけるには、まだまだ幼稚なのかもしれませんが、夜の振り返りを“禅定”、朝の気付きのメール、そして神前での祝詞の奏上を“持戒”、お酒などの諸々の欲を控えることを“忍辱”とし、この習慣の継続を多少なりとも“精進”と言うのであれば、“布施”に値する習慣を一つでも身に付けたいと思いました。

布施”には、大きく分けて二種類あります。
有形のものを施す“財施”と、無形のものを施す“無財の布施”です。二宮尊徳先生はその報徳仕法推譲という“財施”を勧めておりましたが、私の場合は、まだまだ財を施せる状態ではありません。そこで、無財の布施を行いたいと思います。

致知という雑誌で、松原泰道老師が度々口にしている言葉に、「帰るとき、来たときよりも美しく」というものがあります。これがなぜか、ここ最近ずっと頭の片隅に残っています。子供の頃、誰もが一度は教えられたことでしょう。ずっと頭に残っているというので、これを“無財の布施”として、今後、習慣に加えていきたいと思っています。

打ち合わせでどこかを訪れたとき、何か用事でどこかを訪ねたとき、何もせずに家にいたときは家にて、ゴミを拾う、汚れを拭き取る、小さなことでいいと思っています。気付いたところを一つでも綺麗に出来たら良いなと思います。

習慣というのは、継続であって、続かなければ全く意味がありません。これは、甘えなのかもしれませんが、あまり増やしすぎず、大きくしすぎず、小さなこと、簡単なことを続けて、最後には、塵も積もれば山となるようにしていきたいと思います。

小さな経営論―人生を経営するヒント 小さな経営論―人生を経営するヒント
藤尾 秀昭

二宮尊徳の教え 其の十七 積善の家に余慶あり

尊徳先生は、禍福吉凶について以下のように述べています。

方位によって禍福を論じ、月日によって吉凶を説くということが昔からある。世間の人はこれを信じているけれども、そんな道理があるはずがない。禍福吉凶は、方位や月日によって決まるものではない。それは迷信である。仏教では「本来東西という方角などない」とさえいっている。禍福吉凶は、それぞれ自分の心と行いが招くところにやってくるのであり、また、過去の因縁によってやってくるのである。

ある高徳の僧が強盗に遭ったときの歌に、「前の世の 借りを返すか今貸すか 何れ報いは 有るとこそしれ」と詠んだ通りであろう。絶対に迷ってはいけない。強盗は鬼門から入ってはこない。悪日だけに来るのでもない。戸締りを忘れたら、入ってくるものと思いなさい。火の用心を怠れば、火事が起こるだろう。試しに、戸を開けておくがいい。犬が入ってきて、食べ物をあさるだろう。これは、明白なことだ。

易経に「積善の家に余慶あり、不積善の家に余殃(よおう)あり」(善行を積み重ねた家には、必ず子々孫々の後に至るまで幸福が及ぶものである。不善を積めば、その家は後世まで災禍を受けるものである)とあるが、これは永遠に変わらない真理である。決して疑ってはならない。これを疑うのを、“迷い”というのだ。

米を蒔いて米が実り、麦を蒔いて麦が実るのは明らかなことで、毎年毎年変わらないことである。それは、天理だからである。

月日によって吉凶があるなどということは、決して信じてはいけない。信じなければならないのは、「積善の家に余慶あり」という金言である。しかし、「余慶」も「余殃」もすぐにやってくるものではない。百日で実る蕎麦があれば、秋に蒔いて夏に実る蕎麦もある。諺に「桃栗三年柿八年」というのと同じことだ。因果や応報にも、遅い、速いがあることを忘れてはならない。

(参考:現代語抄訳 二宮翁夜話―人生を豊かにする智恵の言葉

ここでは、真理を疑っている状態を“迷い”とし、真理を疑ってはならない。善を積んで始めて幸福、吉兆があり、それにも遅い、速いがあるのであると説かれています。高徳の僧の歌にあるように、「借りを返すか、今貸すか」という句も印象的でした。どうやって善を積んだらいいのか。実践しているのは「良い習慣」を「継続」させるということ。今は、身を修めることで精一杯でありますが、一つずつ「良い習慣」を増やし、継続させることで、善というものが、多少なりとも積めればと思っております。

また、先日、友人から頂いた「小さな経営論」という本にも、「開花に10年かかる人間の花」とありました。筆者の藤尾社長は、多くの偉人・賢人を見てこられ、その結果、人は花を咲かせるのに、10年くらいかかるとおっしゃっております。とても統計的な感想だと思います。成果・結果を焦らず、一歩一歩しっかりと歩んでいきたいと思います。

現代語抄訳 二宮翁夜話―人生を豊かにする智恵の言葉 現代語抄訳 二宮翁夜話―人生を豊かにする智恵の言葉
渡辺 毅
小さな経営論―人生を経営するヒント 小さな経営論―人生を経営するヒント
藤尾 秀昭

二宮尊徳の教え 其の十六 富裕者の心得

尊徳先生は、富裕者が心得なければならないことを以下のように説いています。

「論語」に「魯の哀公が有若(孔子の門徒)にお尋ねになった。『凶作で財政が足りないが、どうしたらいいだろうか』。有若がお答えしていうには、『いっそ一割の税になさってはどうでしょうか?』。『二割でも私は足りないというのに、なぜ一割にするのか』と再び哀公が尋ねると、有若はいった。『百姓が豊かになれば、殿様がひとり窮乏するはずがありません。百姓が窮乏すれば、殿様ひとりが豊かになるはずもありません』」とある。

これは、難解な理屈である。
これを例えてみると、鉢植えの松に、肥料が不足して、それが枯れようとしているときに、「これをどうしたらいいか」と問われて、「どうして枝を切らないのか」と答えるのと同じである。また、さらに「このままですら、枯れようとしているのに、どうして枝を切るのか」と尋ねて、「根が枯れなければ、木は誰とともに枯れようか」と答えたのに似ている。

これなら実に、疑いのない問答になる。
日本は六十余州の大きな鉢である。鉢は大きいけれども、肥料が不足したときは、無用の枝葉を切り取る他に道はない。人の財産も、それぞれ一つずつの小鉢である。生活費が不足したら、速やかに枝葉を切り取りなさい。このときに、「これは先祖代々のしきたりだ。家風だ。これは親が苦心して立てた別荘だ。これは特に大切にしてきた品物だ」などといって、無用の枝葉を切り捨てることをやらないと、たちまち枯れていってしまうものなのである。すでに枯れはじめてしまっては、枝葉を切り取っても間に合わない。これは、最も富裕者が心得なければならないことである。

(参考:現代語抄訳 二宮翁夜話―人生を豊かにする智恵の言葉

尊徳先生が「二宮翁夜話」の中で繰り返し唱えていることです。分限を守り、収入が減ったら、速やかに支出も減らせ。これが鉄則だと教えています。生活水準というものは、一度上げてしまうと、下げるのが難しいといわれますが、この確かなことを実践できないと、手遅れになってしまうといっています。これは、家計にも、会社の財務にも、国家の財政にも当てはまります。ある経営者が経営のコツを聞かれて、「分限の中でビジネスをしているだけで、何も難しいことはしていない」と答えていたのを何かで拝見した記憶があります。50の収入なら、25で生活し、10の収入なら5で生活するといった生活癖を付けていきたいと思いました。

現代語抄訳 二宮翁夜話―人生を豊かにする智恵の言葉 現代語抄訳 二宮翁夜話―人生を豊かにする智恵の言葉
渡辺 毅

二宮尊徳の教え 其の十五 堯の喜び

昔、堯という中国の聖天子は国を厚く愛し、刻苦精励して国家を治めた。国民が歌った。「井戸を掘って水を飲み、田を耕してご飯を食べる。私たちは帝の力を少しも借りていない」

堯はこれを聞いて、大いに喜んだという。普通の人間なら、恩知らずといって怒るはずなのに、「私たちは帝の力を少しも借りていない」と歌うのを聞いて喜んだというのは、さすが聖天とされる堯である。

私の道は、この堯や舜も心を悩ましたといえる大道から生まれた道である。だから、私の道に従事して刻苦勉励して国を興し、村を興し、人々の困窮を救うことがあったときも、必ず人々が「報徳仕法(二宮金次郎のやり方)の力を少しも借りていない」と歌うはずである。そしてこのときこれを聞いて、喜ぶ者でなければ、わが一門の人間ではない。よくよく謹みなされ。

(参考:現代語抄訳 二宮翁夜話―人生を豊かにする智恵の言葉

まことの施しというのは、水のようなものだという教えなのでしょうか。
人に施しをした際、どうしてもその見返りや、名声を求めたくなったりしますが、尊徳先生は、堯のような姿勢が素晴らしいと教えています。

仏教の六波羅蜜にも、布施という徳を積む実践項目がありますが、無償の奉仕、提供ということを心掛けていけたらと思います。

現代語抄訳 二宮翁夜話―人生を豊かにする智恵の言葉 現代語抄訳 二宮翁夜話―人生を豊かにする智恵の言葉
渡辺 毅

二宮尊徳の教え 其の十四 贅沢癖は生涯の大損

尊徳先生は、以下のように贅沢は生涯の大損ということを説明しています。

いくら財産が豊かで位が高くても、質素に暮らし、
驕った贅沢な生活を家法の中で厳しく禁じておかなければならない。
なぜなら、奢侈は、欲望によって利を貪る気持ちを増長させ、慈善の心も失わせてしまう。
そして自然に欲深くなり、ケチくさくなって、仕事の上でも不正を働くようになり、
その結果、災いも生じてくるのである。これは恐るべきことだ。

「論語」に「たとえ周公ほどの立派な才能があったとしても、傲慢でケチなら、
その他はどんなことでも見るに足りない
」とある。

家法において質素に暮らすことを定め、良くそれを守り、驕った贅沢な生活が習慣とならぬよう、
食事はご飯と汁物、着物は木綿とするのが、自らの身を助けるのだという真理を忘れてはならない。

(参考:現代語抄訳 二宮翁夜話―人生を豊かにする智恵の言葉

確かに、立身出世を果した人物には、質素な人が多いように感じます。
例えば、以前ご紹介した安田グループ創始者、安田善次郎氏は、この言葉の通り、
終生質素倹約に生き、着物は木綿だったと言います。

また、先日、会津藩校日新館にて論語の講義に出席しましたが、
若松ガス創始者の高木先生も当日着ていた背広は30年着ているとおっしゃっておりました。
(二宮尊徳のような生き方を見習っているとのこと。)

尊徳先生は、さらに以下のように続けています。

何事も習慣となり、それが平常のことになってしまっては仕方がないものだ。
遊楽に慣れてしまえばおもしろいこともなくなり、うまい物に慣れてしまえば、
うまい物もなくなってしまうだろう。
結局これは、自分で自分の喜びや楽しみを減らしてしまっているようなものだ。

毎日勤労する者には、朔望(一日と十五日)の休日も楽しみであり、
盆や正月になればそれはもう大きな楽しみである。
こんなふうに休日が楽しみになるのは、平日の勤労に慣れているからである。
この道理を明らかにして、滅亡の根本原因を取り除かなければならない。

そして若い者は、酒を飲むのも、煙草を吸うのも、
月に四、五回に限定して、酒好き、煙草好きになってはならない。
それに慣れて酒好き、煙草好きが癖になっては、生涯の大損である。
よく慎みなさい。

滅亡の原因となる習慣を減らし、無くして、
癖にならないように慎まなければならないと説かれています。

身を滅ぼすようなことが癖になってはいないか?
身を助けることが疎かになってはいないか?
毎日内省しなければならないと思いました。

※若い者は…のくだり、ドキッとさせられました(汗

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渡辺 毅
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